カミュなんて知らない

2000年5月に、
愛知県で実際に起きた老婆刺殺事件をモチーフに描いた「青春群像ドラマ」。

“人を殺してみたかった”という男子高校生が引き起こした衝撃的な<不条理殺人>の映画化に取り組む学生たちの姿を鮮烈に描き出す。
都内にある大学の“映像ワークショップ”では、カリキュラムの一環として、元映画監督である中條教授の指導の下、学生たちが映画「タイクツな殺人者」を制作することになる。ところが、クランクインを目前にして主演俳優が突然の降板。
助監督の久田は監督の松川らとともに代役探しに奔走する。
そしてどうにか演劇サークルの風変わりな青年・池田哲哉の了承を取り付けることに成功するのだが、一方で監督の松川は、別れられずにいる恋人ユカリに執拗につきまとわれ、すっかり参ってしまっていた。

「人を殺してみたかった」という高校生の心理を「正常」か「異常」かで学生たちが激論を交わす。


これはフィクションなのか?現実なのか?
理由無き殺人時代をリアルに描いた衝撃作!
DVD販売中


柳町光男監督最新作 2005年カンヌ国際映画祭監督週間出品 2005年ニューヨーク映画祭出品 

キャスト&スタッフ

スタッフ
脚本・監督:柳町光男 
プロデューサー:清水一夫 
撮影:藤澤順一 
音楽:清水靖晃 
照明:小野 晃
録音:山田 均 
美術:斉藤岩男 
編集:吉田 博 
監督補:門奈克雄
製作補:澤木慶瑞 安西志麻 
記録:石田芳子 
助監督:東條政利 
衣裳:浜井貴子 
ヘアメイク:小堺なな
特別協力:立教大学 
後援:財団法人 
としま未来文化財団 
協力:池袋シネマ振興会
製作:「カミュなんて知らない」製作委員会(プロダクション群狼、ワコー、Bugs film)
配給:ワコー、グアパ・グアポ

キャスト
 柏原収史 @松川直樹
 吉川ひなの @ユカリ
 前田愛 @久田喜代子
 中泉英雄 @池田
 黒木メイサ @レイ
 田口トモロヲ @大山
 玉山鉄二 @西浦博
 阿部進之介 @本杉
 鈴木淳評 @上村
 伊崎充則 @吉崎
 金井勇太 @中根
 たかだゆうこ @佐々木綾
 柳家小三治 @そば屋の店主
 本田博太郎 @中條教授




カミュの思想
カミュはその思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。『シーシュポスの神話』の中でもキルケゴール、シェストフ、ヤスパースら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している。

カミュによれば、「不条理(absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である。そしてカミュは自殺を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している。

『反抗的人間(フランス語版、英語版)』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のもの「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である。そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。

しかし革命に必要な政治的暴力さえ批判するカミュのこのような態度は、上述のように(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった(カミュ=サルトル論争)。論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力をふるっている」として徹底的に批判している。この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとして今日的意義を失っていない。
(wikipedia)